はじめに
この記事では、2026年度 第1回 NN早大学院中オープン模試(早稲田アカデミー主催)の国語を徹底解説します。大問は漢字(一)・説明的文章(二)・物語文(三)の3題構成です。
大問二は「都市と山村」の対比からイリイチの学校批判へと展開する説明的文章、大問三は新美南吉の「屁」を題材にした物語文で、それぞれ骨のある良問が揃っています。全問を丁寧に解説していきます。
二(説明的文章)…問一〜二 2点×5、問三〜七・九 4点×6、問八 8点=計42点
三(物語文)…問一 2点×3、問二〜八 4点×7、問九 8点=計42点
合計100点満点
一|漢字の読み書き(16点)
漢字は書き取り6問・読み2問の計8問。早大学院の漢字問題は標準レベルですが、「枚挙」「操縦」「歴訪」など日常ではあまり書く機会のない語もあり、正確な書き取り練習が必要です。
二|説明的文章 ― 都市と山村・イリイチの学校批判
文章の概要
この文章は、筆者の体験をもとに「都市と山村の自然に対する姿勢の違い」を出発点とし、「近代社会における学校制度」「イリイチの脱学校論」「評価の意味」へと論を展開する説明的文章です。
- ・科学的思考に基づく合理性で自然を「改変」
- ・自然の力を圧倒的に上回れると感じている
- ・「自然に優しい」と思いながら、実はほんの一部しかコントロールしていない
- ・快適さを環境コントロールしながら暮らす
- ・自然の恵みを受けて謙虚に暮らす
- ・自然を改変できるという発想自体が「差し出がましい」
- ・自然に敬意を抱きながら地域の伝統を守る
- ・自然の圧倒的な力に従いながら暮らす
設問解説
文脈から最も適切な語を選ぶ空欄補充問題。
a ― 都市と異なり、山村では「自然の力の方が圧倒的に大きく、自然を改変できると考えること自体がおこがましい」と感じるという文脈です。「おこがましい」は「差し出がましい」と同義なので、エ「差し出がまい」が正解です。
b ― 明治政府が「日本国民」という新しい共同体意識、つまり「標準的な国民像」を学校制度を通じて社会全体に広げていったという文脈。「慣行」は尊敬の意味で使われているのではなく、イ「慣行(=慣れ行くこと・制度を通じて広げること)」が適切です。
c ― 筆者が大学院に入ると「その評価の重圧に押しつぶされそうになりましたが、それが筆者の研究活動の質を一定程度担保してくれた」という文脈。「間違いない、大丈夫であると認め、責任をもつこと」を意味するウ「保証して」が正解です。
空欄 A ・ B に入る接続表現を選ぶ問題。
A ― 前後が逆説的な関係です。「自然を完全に支配することもできなかった」と述べた直後、「もっとも」で一度譲歩してから論を続けています。ウが正解。
B ― イリイチの「カトリック司祭としての経験」について述べ始める箇所。直前の内容をまとめ、さらに補足的に別の経験を紹介する流れのため、オが適切です。
「自然」に続けられる十一字の語句を本文中から抜き出す問題。
ここでの「自然」は大自然ではなく、人間がコントロールできる「自然のほんの一部」のことです。本文中に「人間が制御可能な範囲の自然」と付き合っているだけだ、という表現があります。解答の際は「自然」に続く十一字を抜き出すので、はじめの五字を答えなさいという指示に注意しましょう。
「都市と山村の違い」について説明する問題。
問三でも確認したように、都市に暮らす人びとは「自然に優しい」と思いながらも、実際には生活する空間や時間を限定することで「自然のほんの一部だけをコントロールしているにすぎない」のです。「都市と山村の違い」は、人びとが自然にどのように相対しているかという点にあり、ウが正解です。
イ「都市の人々は快適さを追求し、山村の人々は地域の伝統を守る」は価値観や生活態度についての記述であり、ここで問われている「自然に対する姿勢」とは合致しません。エ「山村の人々は自然の圧倒的な力を利用しながら暮らしている」は本文中にない記述です。
「標準的人間」とはどのような人間かを説明する問題。
本文のある一文を確認すると、「標準的人間」とは「この物語に基づいた人間像」であり「フィクション(=架空の物語)」であると述べられています。また、「人間は自然を超克できる」という物語がもとになって形成された人間像が「標準的人間」です。さらに、近代が最初に成立した比較的大規模な自然災害の少ない地域(ヨーロッパ)で成立したことから、イが正解です。
イリイチが学校のどのような点を批判したのかについての説明として適切でないものを選ぶ問題。
イリイチの学校批判は以下のような内容です。
- 「地域社会から切り離された学校は、子どもを標準化された国民として再生産し、近代社会に巻き込んでいく装置」になっている
- 「社会全体を学びの場」にすべき(=「脱学校化」)
- 「学校という制度に人間の学びを独占させ」ることへの批判
ウは「体験や具体例は用いられていますが、それは筆者の思考の過程を示すためではなく、筆者の主張をわかりやすく伝えるために用いられています」という趣旨の選択肢ですが、実際にはイリイチの考えだけでなく体験も用いられています。しかし設問は「イリイチの学校批判の説明として適切でないもの」を問うているため、たしかに学校では「一定のカリキュラムを一律に与え」られますが、「子どもたちの主体的に学ぶ意欲を失わせる」ことは本文中で述べられていないので、ウが不適切です。
C に入る語として最も適切なものを選ぶ問題。
C のある一文を確認すると、「イリイチの学校批判」は「そこ」にあると書かれています。C は「イリイチの学校批判」について述べられている箇所にあり、学校を「子どもを標準化された国民として再生産し、近代社会に巻き込んでいく装置」とみなす批判の核心は、学校という制度そのものの成り立ちや役割を問題にしているということです。つまり、イリイチの学校批判は学校という存在の根本の部分を批判するものであるため、イの「根本的」が正解です。
筆者が「学びを学校に限定しない」というイリイチのアイデアに賛成する理由を答える記述問題(8点)。
本文の終盤で、筆者はイリイチの考えに賛成する根拠として自身の経験を挙げています。大学院時代に「研究に対して厳しい評価の眼差しが容赦なく注がれ」、「その評価の重圧に押しつぶされそうになった」ものの、それが研究の質を一定程度担保してくれたこと。また、内田樹先生のゼミでは「年齢や職業、立場の異なるさまざまな人びと」と関わり、「評価の眼差し」に閉じ込められる学びと、人との関わりの中で生まれる学びの両方を経験しました。
本文の書かれ方を説明したものとして最も適切なものを選ぶ問題。
ア「都市と山村の対比は文章の導入で用いられているが、主題は近代と学校の関係なので不適切」→ 対比は確かに文章の導入ですが、それだけが主題ではないので不適切。
イ「山村の暮らしは自然の良さを伝えるためではなく、都市との対比を通じて近代の考え方を説明するために用いられている」→ 趣旨は合っていますが「山村の暮らしの良さを伝える」とは述べていないため不適切。
ウ「体験や具体例は筆者の思考の過程を示すために用いられている」→ 筆者の主張をわかりやすく伝えるために用いているので不適切。
エ「都市と山村の対比を通じて近代の自然観について説明し、その後学校制度や評価のあり方へと筆者の論が展開している」→ 本文の構成を正確に説明しているため、正解です。
三|物語文 ― 新美南吉「屁」
文章の概要
新美南吉の「屁(へ)」は、田舎の小学校を舞台にした物語です。主人公の春吉は正義感のある少年ですが、授業中に思わず屁をしてしまい、いつも屁をすることで知られている石太郎に濡れ衣を着せてしまいます。石太郎に対する罪の意識と、自分を守りたいという気持ちとの板挟みで苦しむ春吉の心理が繊細に描かれた作品です。
真面目な性格
真犯人(屁の主)
出さない(水藻の
ようなぐず)
田舎の気風に
慣れてきた
重要語句
蛇つかい…蛇を駆除する専門業者
古手屋(ふるてや)…古着屋・古道具を販売している店
螺集(らしゅう)…かたまり所に群がり集まること
小使(こづかい)…用務員のこと(旧称)
膳立て(ぜんだて)…素早く駆除すること
ぬれぎぬ…無実の罪を着せられること(「濡れ衣を着せる」)
設問解説
本文中の「られる」のうち、性質が他と異なるものを含む問題と、語句の意味を問う問題。
a「鵜呑みにする」の意味。「知らない文字を鵜呑みにして読本を読んでいつも…最初の頃のように…感じられなくなった」とあるので、「最初は鵜呑みにして読めていたが今回は春吉が屁をするのですから」という文脈から、ウ「意味もわからずに」が正解です。
b「いつもは石太郎が屁をするので、今回も『いつもと同じ騒ぎが始まり』…みんなの視線が石太郎の上に集まる」。いつもと同じ流れで犯人探しが始まったことを示すイ「いつもと同じ騒ぎが始まり」が正解です。
c ― 春吉が「正義感がある」ことが前提。自分が犯人だと名乗り出たいが出られない。「正義感があり」「黒板の裏に棒を持って」石太郎の前へ…このとき春吉の心に「正義感がくっと起きて」自分だと言おうとするが、同時に「恥ずかしい」「怖い」という気持ちもある。結局「自分の罪を自白させられる」ことにもなく…ということで、「やむを得ない」状況からウ「やむを得ず」が正解です。
A に入るひらがな四字を答える問題。
自分が屁をしたのに名乗り出ず、石太郎にその罪をかぶせてしまったことを表す言葉です。「濡れ衣を着せる」=無実の人に罪をなすりつけることを意味します。
本文中の「られる」の一部のうち、性質が他と異なるものを選ぶ問題。
助動詞「られる」には受身・尊敬・可能・自発の4つの意味があります。ア・イ・ウの「られる」はすべて藤井先生の動作に接続しており、尊敬の意味で使われています。一方、エについてですが、「春吉君と同じような経験がかつてあった相違ないと考えることができる」という可能の意味で使われている分析もあります。よって、エのみが他と性質が異なり正解です。
「村の人になった」とはどうなることかを答える問題。
藤井先生は「半年前に町からやって来た新しい担任の先生」で、本文のあらすじにもあるように「村の人になった」ということは、すっかり村の生活や習慣に慣れてきたということです。「麦の刈られた時分の昼日」だけでなく「教室でも先生は田舎の気風に馴らされ」ている、という描写がありますので、答えは「田舎の気風」です。
「水藻のような石太郎」が表している石太郎の性格について答える問題。
「水藻」とは水の中で育つ藻のこと。石太郎が「蓋をとったら出ること」を春吉が「不思議に思っていること」や、石太郎が「照れたような表情で沈黙しているばかり」であること、周囲からいくら攻められてもそれを一切反論することなく、ただ黙って受け止めていることなどから、石太郎はあまり自分の感情や考えを表に出そうとしない性格であることがわかります。水中にゆらゆらと浮かび、流れに乗って移動してしまう水藻の様子と合致しますので、ウが正解です。
「いつもと同じ騒ぎが始まった」という表現に作者のどのような意図が込められているかを答える問題。
問一のbでも確認したように、教室内に屁が放たれてしまったために「いつもと同じ騒ぎが始まり」ます。しかし今回は春吉が真犯人です。「今日は自分に注がれているのだと思い」…しかし流れは「いつも」と変わりませんでした。つまり、周囲から「石太だと言う誤った声」があがり、藤井先生も棒をもって石太郎に近づき、教室で何度もくり返されてきたお決まりの流れが始まったことを示しています。屁をしたかどうかの確認ではなく、いつも通り石太郎を犯人だと決めつける教室の習慣があぶり出されているのです。よってイが正解です。
「歯がゆいほどのぐず」という語句を本文中から抜き出す問題。
「依然照れたような表情で沈黙しているばかりである」という石太郎の様子を、春吉がどのように捉えているかを示す表現です。春吉は石太郎が弁解すること(「恐れながらも弁解する」こと)を期待していたのに、石太郎はただ黙って沈黙しているだけ。その様子を春吉は「歯がゆいほどのぐず」と感じたのです。
「春吉君だけは、事がまだ終末に到っていない」という理由を答える問題。
石太郎に藤井先生が小突かれたことで騒ぎは終わりを迎えました。しかし春吉だけは「そうはいかなかった」のです。春吉にとっては、事がまだ終末に到っていないのは、心が全く落ち着かなかったからです。周囲の反応はもう問題にならないのですが、「目の前で起こった出来事について、十分に理解することができず」にいるのではなく、「自分のことをどう見ているか」=自分が犯人だとバレるかもしれないという不安ではなく、自分の中に石太郎に対する罪の意識が残っているからです。エが正解です。
「だがそれは強くない」の理由を説明する記述問題(8点)。
「だがそれは強くない」の「それ」は、直前の段落にある「自分もその一人だ」と反省しながら湧いてくる「自己嫌悪の情」を指しています。春吉は「屁騒動」が教室で起こったとき、自分が犯人であると信じないまま石太郎が犯人扱いされる展開になったことで、周囲の子たちの「狡猾そうに見える顔」を眺めていると、自分も同類だと気づきます。しかし、最終段落で「こういう種類のこと、人の生きてゆくためには…」とあるように、人間が生きていくうえでは自分の過ちを他人になすりつけることも許されうるのだと思い至ったことで、自己嫌悪の気持ちはそれほど強くならなかったのです。
まとめ
大問二の説明的文章は、「都市と山村の自然観の対比」から「イリイチの学校批判」「評価のあり方」へと論が広がる、やや難度の高い文章でした。段落構成をしっかり把握し、筆者の主張を追いかける力が求められます。
大問三の物語文は、新美南吉「屁」という題材のユニークさに惑わされず、春吉の心情変化を丁寧に追うことが鍵です。特に「正義感 vs 自己保身」「自己嫌悪の弱まり」といった±混在の心情を正確に読み取れるかが合否を分けます。
早大学院中の国語は「記述力」と「文章構造の把握力」の両方が求められます。今回の模試で見えた課題を次回に活かしましょう!







